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    読点、で、語る——太宰治と中勘助 

     佐藤正午が、エッセイ『小説の読み書き』(岩波新書、2006)という書物で、中勘助と太宰治の読点の打ち方を比較していた。前者は読点が少なく、後者は読点が多い。


    私のような者が神田のまんなかに生まれたのは河童が沙漠で孵ったよりも不都合なことであった。近処の子はいずれも神田っ子の卵の腕白でこんな意気地なしは相手にしてくれないばかりかすきさえあれば辛いめをみせる。なかでもむこうの足袋屋の息子なぞは伯母さんがぼんやりしていると後ろからだしぬけに人の横ずっ面をはっつけては逃げて行き行きしたもので私はひどくおじけてとかくひっこみがちになってしまった。
    (中勘助『銀の匙』)



    まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、なんとも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。
    (太宰治『人間失格』)




    佐藤正午に言わせれば、読点の多い太宰の文章は、「息を継ぎなさいと作者に指図されている」ようで、「技巧/作り物」的であり、読点の少ない中勘助の文章は、「素朴で自然な感じ」である、ということ。

     なんとなく分かるけれども、ちょっと違う気もする。読点というものは、ニュートラルな言葉の羅列に作者の恣意的な意思を割り込むものだ、という見方をしてしまえば、確かに、読点が有れば有るほど技巧的な印象を与えるということになるのだろうけれども、読点を節約する中勘助の文体も、読点をつけないという戦略的な技巧を持っていると、逆説的にも感じられるし、読点がない文章を「素のまま」だとは感じられない。反対に不自然だ。



    ツイッターを始めました。アカウントは「西東あき@saito_0626」です。ブログにならない細かいことをつぶやいていこうと思います。フォローよろしくお願いします。

     と、議論の最中に突如宣伝する、という、戦略的な技巧(?)を用いてフォロワーを獲得しようとしてみたところで、話をもとに戻そう。



     彼の議論は、「作者」と「語り手」を混同しているように思う。「作者」とは太宰治や中勘助であって、「語り手」とは、その作者が創作した「私」という架空の登場人物。もっとも、私小説的側面をもつ小説において、両者は複雑に混じり合っているわけだが。

     
     二つの文章から受ける印象の違いは、三つの「距離感」に関係していないだろうか。「作者」と文章の距離感。「語り手」と文章の距離感。「語り手」と「作者」の距離感の三つである。そして読点が影響を与えるのは、二つ目の「語り手」と文章の距離感だというのが、小生の意見である。

     第一に、「作者」と文章の距離感。そこにはあまり両者の違いは観られない。先述したように、両者とも何かしらの戦略的技巧を文章に施してる。結果として現れた表現は正反対だけれども、文章を自在に操ろうとする文章に対する姿勢は、当たり前だが両者とも共通してプロフェッシャルな作家としての姿勢だ——もちろん、作者とお話したわけではないので、実際のところはわからないけれども、一般論として。

     第二に、「語り手」と文章の距離感。読点に大きく左右されるのは、これだ。中勘助の『銀の匙』の語り手と太宰治の『人間失格』を比べると、前者の方が語り手の余裕が感じられる。距離感が大きい。ストーリーをやや客観視しながら、流暢にスピーディーに語っている印象を受ける。読点のない流れるような文章のリズムがそれを感じさせる。
     それに対して『人間失格』。『銀の匙』に比べると、テンポが遅い。ゆっくりと、言い聞かせるような印象を与える。読点によって、文章区切られ、語り手が「息づかい」をする——佐藤正午は、我々読者が「息づかい」をするよう強いられると分析していたけれども、「息づかい」をするのは、その文章の「語り手」ではないだろうか——。語り手は、文章を噛みしめるように、「どだい、それは、笑顔ではない」と語る。「息づかい」を文章に感じるほど、語り手は文章と距離を近くしている。

     第三に、「語り手」と「作者」の距離感だ。これがややこしい。なぜならこれは「作者」が「語り手」にどれだけ自身を投影しているか、という極めて「作者」の主観的な問題だからだ。小生はそれぞれの作者の創作背景等については不勉強なため、詳しく考察することはやめておくけれども、一般論として、『人間失格』は自伝小説の側面があるとも評される、ということを思い出すと、『人間失格』において、「語り手」と「作者」の距離感が極めて小さいということが予想できる。そういう意味では、佐藤正午が、太宰治の文章を読むと、「息を継ぎなさいと作者に指図されている」と感じる、というのは、ある意味間違いではない。『人間失格』においては、「語り手の息づかい=作者の息づかい」のように感じられる、ということだ。ただ私に言わせれば、これは読点の効果ではなくて、「作者」と「語り手」の距離感が小さいということでしかない。 


     ああ。抽象的なことを言い過ぎたと、やや後悔をしながらも、最後、自身の言いたい結論を述べてしまおう。それは、読点は「語り」をつくることができる、ということだ。読点は、文章のテンポやリズムを決めながら、語り手の位置づけを行っている。「読点」が「語り口」を規定してる。どういう人物が、どういう距離感で、どういうテンションで、物事を語っているのか、ということ。ちなみにその読点の効果が、映画におけるショットとショットをつなぐモンタージュの効果と類似しているところがある、という思いつきをしたけれども、それをここで述べてしまうと取り留めもなくなるので、やめておこう。


     と、こんなフワフワとした結びをしてもつまらない、ということは私も分かっているので、第五考の結びにかえて、坂口安吾の『桜の森の満開の下』冒頭を引用してごまかすことにしようかな。



     桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。



     最後の読点が味を出していることは言うまでもない。


    西東あき

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    ヌーヴェル・バーグ、中島哲也 —「作り手も観客と同じ目の高さから出来事を体験していくという作り方」—

     以前からよく話題に上るリアリズムについて。勉強中、次のような一節を見つけた。1950年代フランス映画、ヌーヴェルバーグの解説で。



     それまでのような、映画に現れるすべての出来事を作り手が熟知し、観客に手際よく説明するという物語ではなく、作り手も観客と同じ目の高さから出来事を体験していくという作り方で、そのなかに現実の人間の実感、心理のあいまいさ、不可解さをにじませた。彼らはアンドレ・バザンのリアリズム論、アレクサンドル・アストリュックのカメラ万年筆論、イタリアのネオレアリスモなどから影響を受け、主観と外界との関係から心の中に迫るリアリズムを探求した。
    (出口丈人『映画映像史 —ムーヴィング・イメージの軌跡』小学館, p.126–127)(傍線は執筆者)



    古典ハリウッド的な「語り」のアンチテーゼ。1950年代のフランス映画。この映画美学も、これまでに話題に出た吉行淳之介やアロノフスキー風のリアリズムか。小生の好きなタイプの表現。

     アンドレ・バザンの書籍でも読んでみようか、と、書籍リストに彼の名前をメモしている最中、面白いことを思い出した。本棚から湊かなえ『告白』の文庫本を取り出す。その巻末に、同名の映画を監督した中島哲也のインタビューがのっているはず。見つけた。『告白』映画化に対して、彼は次のように語っている。



    —では、最初から映画化を意識して?
    中島 いえ、必ずしもそうではありません。ただ、読み終わった後も、この小説に出てくる登場人物達・・・女教師の森口悠子はもちろん、罪を犯す少年A、B、そしてその親なんかがずっと頭に残っていました。(中略)登場人物達を映画に撮ることで、もっと彼に近づきたいと思ったんです。(中略)この作品を脚本化して、俳優さんに演じてもらうとなると、それぞれが僕にもっといろんな語りかけをしてくるだろうし、最初に読んだときには気づかなかった発見というのもあるのではないか、と思いまして。

    (湊かなえ『告白』双葉文庫, p303—304)



    ヌーベルバーグの引用風に言えば、「作り手も観客と同じ目の高さから出来事を体験していくという作り方」を、中島哲也はしているように思う。監督が物語の全てを、初めから神のごとく知っている訳ではないのだ。作りながら知る。

     ああ。なるほど。技巧的でキッチュな演出にあふれている彼の映画に、深い人間的情感が込められているのは、そういうことか。登場人物の理解を求めて、監督は、役者に「生の演技」を強いるわけだ。監督は役者を通したリアル語りかけを求めているのか。だから中島哲也は役者に厳しいのかもしれない。

    『嫌われ松子の一生』で、私の最も好きなシーンを二つ。対位法的な音楽を背景に、中谷美紀や伊勢谷友介がリアルな「生の演技」をする。ぐっとくる。






    後者の動画において、原作の小説に、このシーンがない、ということにも注目したくなる。小説に現れた文章以外からも、登場人物を理解しようする中島哲也の姿勢とも読み取れる。そういえば『告白』にも、松たか子が、夜道を歩きながら一人で泣く、という小説にはないシーンがあったような気もするが、記憶が曖昧のため、断言はよしておこう。



     第四考を閉じる前に、些か内省的になった。
     小生は、大学演劇をしていて、脚本演出を担当することも多かったが、そういえば、「なんで脚本家なのに、自分の脚本のことわからないの?」と良く言われたものだ。今度そういわれたら、「私はフランス、ヌーヴェル・バーグの系譜を継ぐ者ですので」とでも言っておこうかな。


    西東あき

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    キューブリック『バリー・リンドン』 —「スト—リー」と「語り」のミスマッチ


     映画における「語り」と「ストーリー」のミスマッチが、『ノア』にあると前回の記事で言ったけれども、どうも私は、それに惹かれるようだ。一つそんな場面を紹介。



    スタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』(1975)からのシークエンス。18世紀の華やかな貴族社会。シューベルトの『ピアノ三重奏曲』を背景に、レドモンド・バリーとレディ・リンドンが愛を交わす。

     愛を交わすといっても、そこに会話はない。音楽と役者の演技・しぐさ、カメラワークがその内容を担当している。特に視線を交える二人のミディアム・ショットの連鎖がたまらない。緊張。どきどきする。

     ドキュメンタリー風ともいえる味気ない神視点のナレーションとともに淡々と進行するこの作品において、このシークエンスは異様な存在感を醸し出している。それはこのシーンがあまりにリアルだからだ。

     安直なロマンス映画が陥りがちな冗長な言葉はそこにない。あるのは、二人の生々しい視線やしぐさ、そして音楽。遠い300年前が映画の舞台。しかしそこにある映画の「語り」は、現代の私たちと同じような感性から作られているように感じる。ぐっと映画が現代的になる。「ストーリー」と「語り」のミスマッチ。私はそこに感動する。

     この映画にはそういうシーンがたくさんあるし、キューブリックの他の映画にもこのようなシーンはたくさん出てくる。キューブリック映画は「語り」が魅力的だ。

     単に男が女をナンパするというシーンを、これほどまでに上品に描ける巨匠キューブリックの手腕に畏敬の念を覚えながら、第三考を閉じようと思う。シューベルトの音楽、美術、照明、映像と音楽の同期性など、このシーンの魅力は簡単には語り尽くせない。またの機会に。


    西東あき

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    ダーレン・アロノフスキー『ノア』とリアリズム表現 ー「孤独な人間」

     前回、アロノフスキーの『ノア』を取り上げたが、それに関連して。

     表現のリアリティに関する興味深い文章を見つけた。私の敬愛する作家吉行淳之介の『技巧的生活』(昭和42年新潮文庫)の巻末に載せられた奥野健男による解説。

     そして作者は、男も女も登場人物のすべての心理を見通し、それを意のまま操る、神のごとき場所にいる今までの小説作家の位置を信用しない。毎日一緒に暮らしている女房の心理、たえず知ろうとつとめている恋人の心理さえ、ほんとうにわかることがない。相手の心理がわかったと言うのは幸福な妄想である。知りたいと思えば思うほど、コミュニケーションの不能な他者の壁が強く意識されるのではないか。その了解不能の壁の存在を描くことが、そして孤独な人間の内部を描くことが相手の心理を何でも知っていると絵解き的に描くより、はるかに真実に迫ることができるのだ。かつては諸人間の心理が鳥瞰でき、その組み合わせのメカニズムを客観的に眺めることに興味を感じていた小説の読者も、今はそれをリアリティのないつくりもののように感じ、信用しなくなってしまった。相手のほんとうの心はわからず、あせりもがくところに切迫したリアリティと切実な共感をおぼえるのだ。
    太字下線は執筆者による)

    吉行淳之介が、不可解な女性に対して「あせりもがく」男の孤独な心理を描いたのだとしたら、『ノア』では、不可解な神に対して「あせりもがく」ノアの孤独な心理が描かれたとでもいえようか。

     またこの引用によって示唆されることは、リアリズムには2種類あるということ。「相手の心理を何でも知っていると絵解き的に描く」神の視点からのリアリズム表現と「孤独な人間の内部を描く」主観的な視点からのリアリズム表現。後者がより現代的。ギリシャ悲劇のリアリズム表現は前者にあたりそうだ。

     「ノアの方舟」という、それこそ古代劇にでも出てきそうな題材を扱いながらも、『ノア』からどことなくホームドラマ感が溢れ出ているのは、その映画の現代的なリアリズム表現のせいか。「ストーリー」と「語り」のミス・マッチとでもまとめておこう。


     第二考を閉じようとした時、ふと思う。現代的なリアリズムが「孤独な人間の内部を描く」とはどういうことだろう。「孤独」にリアルを感じるなんて、現代人は皆、常日頃から寂しい思いをしているということか。


    西東あき

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    ダーレン・アロノフスキー『ノア』 —信じること

     ユダヤ系アメリカ人のダーレン・アロノフスキー監督の映画を見た直後、いつも何とも言えない寂寥感や孤独感に襲われる。未解決のまま、壁にぶつかったまま。恐ろしい。

     その冷淡なもどかしさを、先日日本公開された『ノア』においても、味わった。
     「善」と思われていたノアの行為に感情移入していたら、突然ノアが悪者になった。映画はそういう語りをする。その上最終的に括弧付きの「善」を、ノアはやり遂げられなかった。感動的な音楽。

     表面上では希望に満ちて終わる。しかし違和感。アロノフスキーのデビュー作『π』や『ブラックスワン』のラストと似た質感。

     そのなんとも言えないブラックな表現がさりげなく有ったせいか、どうもこの映画は賛否両論らしい。信仰心の厚いキリスト教徒やハリウッド的スペクタクルドラマを期待していた映画フリークの意見も最もかも知れない。聖書の記述は、もはやパロディとも言えるほど拡大解釈された訳だし、ハリウッド映画としては人間臭すぎた。けれども私は多いに楽しめた。そのブラックなリアリズムを楽しめた。
     
     何を信じていいのか分からない。信じているものが「善」なのか「悪」なのか。リアル。叙事詩的な映画であるにも拘らず、そこには現代的なリアリズムがあった。思えば生きていてすっきりした結末を迎えたことなんてない。いつも葛藤がそこにある。そもそも人生、結末なんて迎えたことがない。「善悪」なんて分からない。何を信じるべきなのか。『ノア』はそんな現実に即した、上質なリアリズム表現の上に成りたってるかもしれない。

     アロノフスキーの他の映画との関連で考えたらそれは説得させられる。不器用な人間。端から見たらそんなに思い詰める必要はないのに、自分で自分を追い込んでいく。自分が信じている感覚だけをたよりに。そんな生々しい孤独の心理ドラマが彼の映画の多くに共通する。これこそが彼の映画表現の源流なのか。「信じる」という行為への違和感か。

     アロノフスキーは、保守的なユダヤ教徒の環境で生まれ育った無神論者である。そんなパラドキシカルな彼は2011年次のように語る。

    "I was raised culturally Jewish, but there was very little spiritual attendance in temple. It was a cultural thing—celebrating the holidays, knowing where you came from, knowing your history, having respect for what your people have been through."


    ”私は文化的にユダヤ人として育ったが、寺院で精神的なことに参加することはほとんどなかった。それは文化的なことだ。祝日を祝い、何処から来たのかを知り、歴史を知り、先人がしてきたことに敬意を払うのである。”

    ここに、彼の信じるという行為への違和感の一端が読み取れるかもしれない。信仰への嫌悪感は、デビュー作『π』に、神秘主義的ユダヤ教徒の描写の中で、やや直接的に描かれてもいる。

     もしもこれと完全に同じ文脈で『ノア』が描かれているのだとしたら、それは尋常じゃないほどのブラックさを持ってるだろう。表面的にも聖書を題材にしているのだから。


     西洋人が感じる信仰への葛藤とはなんだろうか、アロノフスキーは自分の宗教観をどのように語っているのだろうか、リアリズムとはなんだろうか、『ノア』は映画製作会社に飲み込まれることなく、アロノフスキー本人の表現なのであろうか、などなど、様々な疑問を胸に、ここに記念すべき第一孝を閉じることとし、おもむろに手元の文庫本に手を伸ばす。遠藤周作『沈黙』。神は黙って見ているだけ。信じるとはなんだろうか。

    西東あき

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    プロフィール

    西東あき

    Author:西東あき
    24歳(♂)
    音楽、演劇、映画、文学と猫
    twitter : saito_0626

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